アスペルガーを伴侶にもつ人がカサンドラ症候群という落とし穴に落ちてしまいやすいことについての考察

昨日、カサンドラ症候群に陥っている方のツイートを見ていて気づいたことがあります。それは、アスペルガー側が「一緒にご飯にいこう」などと提案しても、カサンドラ側が拒絶してしまうこと。

自分にとっても「あるある」な状況なわけですが、しかし傍目から見たら、そこで一緒にご飯に行って相手の好意を受け入れればいいのに…とか、アスペルガー側が悪いみたいに言っているけど実態として拒絶しているのはカサンドラ側じゃないの?という意見が出てくるだろうなと思いました。

そこで、なぜ、このようなすれ違いが発生するのか。カサンドラ側がなぜ拒絶してしまうのか。またなぜ拒絶しながらも、関係を断てずにいるのかについて自分なりに考えてみました。

カサンドラ症候群 - Wikipedia

カサンドラ症候群、カサンドラ情動剥奪障害とは、アスペルガー症候群の夫または妻(あるいはパートナー)と情緒的な相互関係が築けないために配偶者やパートナーに生じる、身体的・精神的症状を表す言葉である。

アスペルガー症候群の伴侶を持った配偶者は、コミュニケーションがうまくいかず、わかってもらえないことから自信を失ってしまう。また、世間的には問題なく見えるアスペルガーの伴侶への不満を口にしても、人々から信じてもらえない。その葛藤から精神的、身体的苦痛が生じるという仮説である。

 

f:id:bochi-bochi:20160913124535p:plain

うちの場合は、妻がアスペルガーですが、付き合いだした当初、妻はとても努力をしていました。この時点で大きな勘違いが自分のほうに生まれたのだと思います。

自分としては「妻が自立できるように、楽しい人生を送れるように支援・サポートしよう!そして、自分がしんどいときは支えてもらおう」という気持ちがありました。そのため、それに則したアドバイスをしていたのです。要するに自立を目的としているので、原理原則系のアドバイスになっていました。

しかし、アスペルガー側からすれば、そのようなあいまいなアドバイスでは、どうしていいのかわかりません。もっと具体的な指示が必要なのです。アスペルガー側が動けないことをみて、カサンドラ側はマイクロマネージメント(ヘルプ)をせざるを得なくなります。

※このあたりから自分を「カサンドラ側」、妻を「アスペルガー側」と一般化した話の展開にしています。

 

しかし、重大な認識違いとして、アスペルガー側は自己を確立する気などなく、そもそも自己を確立できるとも思っておらず、基本的に対処療法的に相手に合わせようとしているだけだったのでしょう。

これはアスペルガーというよりも二次障害と言うべきものだと思いますが、自分の思い通りにやろうとして、ことごとくそれを潰されてきた経験を持つ人が、自分の意思や方針を持つことに対してそれはいけないことだ、という感覚を持つのは、ある意味自然なことですよね。

だからこそ、カサンドラ側からみるとアスペルガーは当初とても努力しているように見えるし、また最初は確かに改善された部分が目に見えるので、嬉しくなってもっとヘルプしようとしてしまう。

しかし、いくらアスペルガー側が努力しても、結局借り物のアドバイスを身につけるだけで、その奥にある自分自身を消すことはできません。どこかで借り物のアドバイスと自己意識との間に齟齬が発生し、ストレスになってきます。これが体調不良として表れてくるわけです。

さらに、そのときまで、カサンドラ側が一切間違いのないアドバイスができているかというと、たいてい少しぶれたアドバイスをしているはずです。これは、ぶれた発言を複数回行うことで言いたいこと(中心)を伝えるという、健常者からしたら普通のやり取りなのですが、アスペルガーにとっては、そのようなブレは許容できないものになります。

そのこと(カサンドラ側が言っていることが表面的に矛盾していること)をアスペルガー側が指摘することで、カサンドラ側もそうしたブレを意識させられます。そして、カサンドラ側は言葉遣いに非常に気を遣わされることになります。要するに最初から要点のみを伝えろという圧力がかかるわけです。

またこのあたりから、カサンドラ側は、アスペルガー側から一気に信頼を失ったように感じてきます。アスペルガー側からしたら、パートナーからの借り物のアドバイスを脱ぐタイミングであり、これまでも同じようにそうしてきたことなのでしょう。もちろん、自らの意思でそのように選択するのではなく、何日か寝込むことでそれを実現するわけですが…。

この寝込んでいる間、カサンドラ側は一生懸命アスペルガー側を介護をします。自分の発言が引き金になっていることもあり、引け目があるからです。

アスペルガー側が寝込んだ状態から回復したとき、カサンドラ側はヘトヘトになっています。にも関わらず、アスペルガー側からは感謝されない事態が起きます。アスペルガー側からしたら、カサンドラ側の支離滅裂なアドバイスが原因で寝込んでいたわけなので、ある意味被害者と思っているからでしょう。このあたりから、カサンドラ症候群の芽が出てくるのだと思います。

またこのとき、当初の「先生と生徒」「コーチとプレイヤー」という関係から、徐々に同居人的な感じ、もっと言えばあまり触れあいたくない関係に変わっていきます。カサンドラ側としても、自分の発言がきっかけと思っているから、一歩引いてしまい勝ちです。こうして関係が歪んでいくのです。

ただ、子どもがいない間は、そこまで協同してやらないといけないことはないので、問題は深刻化しません。問題は子どもができたときに一気に膨れ上がります。

育児で問題なのは、アスペルガー側の子どもへの無関心、過干渉、過保護というものです。子どもの分離不安を本当にこれでもかというくらい刺激する行動が出てきます。

もちろんアスペルガー側に悪気があるわけではないし、できる限りのことをやっています。しかし他人の気持ちを想像することが苦手という特性は、育児にはとてもキツいものです。結果、子どもはぐずるし、アスペルガー側も体力・気力をなくします。

また、この時期に他人からアドバイスをされると、さきほどと同じことが再現されます。要するにアスペルガー側は深く考えずに、そのまま対処療法的にアドバイスを鵜呑みにしては、うまくいかずに放り投げるということを繰り返すわけです。

この過程で、パートナーであるカサンドラ側はずっとアスペルガー側と子どもを支えなければいけなくなります。しかし、いくらカサンドラ側が支えても、アスペルガー側からは感謝がありません。アスペルガー側からしたら毎回限界を越えているので、そもそも感謝をする気力すらないのです。

この時期を歯を食いしばって乗り越えたとき、カサンドラは疲労困憊になっています。育児において夫婦の助け合いなどという幻想は霧消して、カサンドラ一人に責任がのしかかっていると感じます。自分が倒れると、もう後ろには誰もいないと思っているわけです。

実際はもっと外部リソースを使えればいいのですが、アスペルガーが自力でやろうとすることに引きづられて、カサンドラ側も何とか自力でやろうと知らず知らずのうちにやってしまっているのだと思います。このあたりは定型であればあるほど、相手に合わせてしまっているのでしょうね。

また外部リソースを入れることはアスペルガー側の人格否定になりうるという配慮もしてしまいます。要するに、お手伝いさんを入れたら、きっとアスペルガー側が「やっぱり、私はダメな人間なんだ」と思うだろうということです。

そんな感じで夫婦の会話などなく、毎日を何とか回すことに注力するカサンドラ側。アスペルガー側はアスペルガー側で、毎回借り物のアドバイスに振り回されて倒れることを繰り返します。

そうこうしている間に、なんとか生活が軌道にのって余裕が出てきます。それは子どもが成長してくれるからであり、それはまさに二人の努力のたわものだと言って良いものだと思います。

少しずつアスペルガー側にも余裕が出てきます。しかし、このときこそ、カサンドラ側はうつ病や被害妄想にとりつかれやすくなる時期だと思います。

逆説的ですが、カサンドラ側からしたら、こんなに自分は疲労困憊なのに、なぜ迷惑ばかりかけてくるあいつに余裕が生まれるのか、という恨みのようなものを感じるからです。

これまでカサンドラ側が相手を支えてきた理由は、アスペルガー側が倒れてしまっているからです。つまり、緊急対応なわけです。だからこそ、本来はアスペルガー側がやるべきことも相当肩代わりしている、そういう感覚を常に持っています。

これに対して、アスペルガー側は、現状は自然となったのであり、「カサンドラ側がやりたいからやっている」もしくは「カサンドラ側がやるのが当然」という感覚です。

もちろんアスペルガー側にも多少は引け目があるので、疲労困憊になっているカサンドラ側に対して「たまには気分転換に、子どもと一緒にご飯にでも行こう」などと提案したりもします。

これに対して、カサンドラ側は、ご飯を一緒に行ったとして、レストランなどでの子どもの世話やアスペルガー側が引き起こすであろうゴタゴタ、帰宅してからのルーティン家事、翌日やるべき仕事などを考えてしまいます。その結果、「よし。じゃあ行こうか」とは言えなくなるのです。

端的に言えばカサンドラ側に一切の余裕がなくなっているのです。アスペルガー側がカサンドラ側のやっていることを手伝って負担軽減していけば、カサンドラ側にも余裕が出てくるのでしょうが、残念ながらアスペルガー側もそういう余計なことはしたくないのです。

カサンドラ側としても、アスペルガー側に家事の負担をしてくれるように依頼して、またアスペルガー側がテンパって生活がグチャグチャになったら嫌だという感覚があります。カサンドラ側からしたら、もうこれ以上、加害者になりたくないのです。

こうして縮小均衡の夫婦生活で、行き着く先は離婚や別居ということになるのだろうと思います。(うちはまだ離婚していませんが…)

カサンドラ側にとっては、離婚、別居は究極の加害者行為にあたります。なぜならば、アスペルガー側が、絶対に被害者のポジションを取ってしまうからです。もちろん子どもは究極の被害者になります。それは動かしようのない事実です。カサンドラが離婚、別居に踏み切りにくいのは、そういう事情もあります。

しかし、カサンドラにも体と心の限界があるのです。ここが、最終的なデットラインなるわけですが、余裕のないまま離婚すると、離婚手続き事態が憂鬱なものなので、離婚後に子どもの世話まで行き着かなくなってしまうと思います。(当然、カサンドラ側が親権をもつことになる前提です)

 

結論


最初から誤解によってスタートした関係だと言って良いと思います。その誤解を解かないかぎり、カサンドラ側からすると常にブレーキがかかったような感じで毎日を送らざるをえません。

カサンドラ側は、いま一度自問するべきです。アスペルガー側がまったく自分の言うことを聞き入れなくて、成長もせず、借り物のアドバイスを取っ替え引っ替えしたとしても、自分は相手を受け入れられるかどうか。偏見を排除して、ありのままの相手を見て共同生活を継続できるかどうかを判断するべきです。

また離婚するしないに関わらず、カサンドラ側は自分自身に余裕を持たせるように出来ることがないか探すべきだと思います。アスペルガー側と関与していないところは既に工夫するところはないでしょうから、アスペルガーと関与するところを工夫していくしかありません。

しかし、既にカサンドラ側が肩代わりしている家事などは、アスペルガー側に戻すことは難しいでしょう。なぜならば、それができないからカサンドラ側が担当しているのであり、そこを戻すためには生活全体の整合性を再構築しないといけないからです。

そして、そんな余裕はカサンドラ側にはないでしょうし、うまく再構築できる気もしないでしょう。更に、どうせまた自分がやらないといけないんだろうという先読みも働きます。そんなしんどいことなら、ずっと自分がやっておいたほうがいいとなるわけです。

こう考えてくると、外部リソースを入れる以外には解決策はありません。カサンドラ側が負担している家事ルーティンを代行してくれるファミリーサポートなど第三者を家の中に引き込むのです。

ファミリサポートを利用する目的は、あくまでもカサンドラ側に余裕がなくなっているのを、少しでも回復させるためです。アスペルガー側の感情を考える必要はありません。アスペルガー側は最初ビックリするでしょうが、じきに慣れるはずです。なぜならば、カサンドラ側が担当している家事は、もはや自分に関係しないことだからです。

ファミリーサポートは、カサンドラ側が疲れ果てやすい晩から夜にかけていれると良いと思います。こうして余裕を持った上で、離婚手続きを進めるなら進める、進めないなら進めないという選択肢を取っていくべきだと思います。なお離婚時にもファミリーサポート活用は必須になると思います。その前段階で慣れておくという意味でも有用だと思うのです。

※ここまで書いていますが、まだウチはファミリー・サポート制度を利用していません…。考えているうちにそのような結論に至ったというわけです。

 

追記


あと最初のアスペルガー側の努力をいつまでも脳裏に焼き付けておくのは、カサンドラ側を病ませる原因になると思います。それはカサンドラ側の勘違いだったのです。実態は借り物のアドバイスを取っ替え引っ替えしている人なのだと理解するべき。カサンドラ側は勘違いしていたことを素直に認めないと前に進めないと思います。

アスペルガー側からすれば、最初に寝込んだ段階で、もはやカサンドラ側は有益なアドバイスをくれる信頼できる人ではなくなっています。相手の認識が変わっているのに、カサンドラ側がそれをひきづってはいけないのです。(もちろんだからといって敵対せよと言っているわけではありません)

そもそも、カサンドラ症候群になりやすい人は、「自分が必要とされている」感覚に酔ってしまいやすい人だと思います。自分がまさにそうだからですが(笑)

実際に頼られて悪い気になる人は少ないと思います。カサンドラはこの「必要とされている状況」を必要としているというか、それが生きがいの人、わかりやすくいえば世話焼きが多いのだと思うのです。

カサンドラが鬱化しやすいのは、そもそも提供したかったものとはまったく別のものを提供させられているときです。まるで相手のお母さん役のような立ち回りをさせられているときと言ってもいいかもしれません。確かにある程度「必要とされている」わけですが、それは常に不満たらたらでやらなければいけない不本意なサービス提供となっているわけです。