アスペルガーを伴侶にもつ人がカサンドラ症候群という落とし穴に落ちてしまいやすいことについての考察
昨日、カサンドラ症候群に陥っている方のツイートを見ていて気づいたことがあります。それは、アスペルガー側が「一緒にご飯にいこう」などと提案しても、カサンドラ側が拒絶してしまうこと。
自分にとっても「あるある」な状況なわけですが、しかし傍目から見たら、そこで一緒にご飯に行って相手の好意を受け入れればいいのに…とか、アスペルガー側が悪いみたいに言っているけど実態として拒絶しているのはカサンドラ側じゃないの?という意見が出てくるだろうなと思いました。
そこで、なぜ、このようなすれ違いが発生するのか。カサンドラ側がなぜ拒絶してしまうのか。またなぜ拒絶しながらも、関係を断てずにいるのかについて自分なりに考えてみました。
カサンドラ症候群、カサンドラ情動剥奪障害とは、アスペルガー症候群の夫または妻(あるいはパートナー)と情緒的な相互関係が築けないために配偶者やパートナーに生じる、身体的・精神的症状を表す言葉である。
アスペルガー症候群の伴侶を持った配偶者は、コミュニケーションがうまくいかず、わかってもらえないことから自信を失ってしまう。また、世間的には問題なく見えるアスペルガーの伴侶への不満を口にしても、人々から信じてもらえない。その葛藤から精神的、身体的苦痛が生じるという仮説である。
うちの場合は、妻がアスペルガーですが、付き合いだした当初、妻はとても努力をしていました。この時点で大きな勘違いが自分のほうに生まれたのだと思います。
自分としては「妻が自立できるように、楽しい人生を送れるように支援・サポートしよう!そして、自分がしんどいときは支えてもらおう」という気持ちがありました。そのため、それに則したアドバイスをしていたのです。要するに自立を目的としているので、原理原則系のアドバイスになっていました。
しかし、アスペルガー側からすれば、そのようなあいまいなアドバイスでは、どうしていいのかわかりません。もっと具体的な指示が必要なのです。アスペルガー側が動けないことをみて、カサンドラ側はマイクロマネージメント(ヘルプ)をせざるを得なくなります。
※このあたりから自分を「カサンドラ側」、妻を「アスペルガー側」と一般化した話の展開にしています。
しかし、重大な認識違いとして、アスペルガー側は自己を確立する気などなく、そもそも自己を確立できるとも思っておらず、基本的に対処療法的に相手に合わせようとしているだけだったのでしょう。
これはアスペルガーというよりも二次障害と言うべきものだと思いますが、自分の思い通りにやろうとして、ことごとくそれを潰されてきた経験を持つ人が、自分の意思や方針を持つことに対してそれはいけないことだ、という感覚を持つのは、ある意味自然なことですよね。
だからこそ、カサンドラ側からみるとアスペルガーは当初とても努力しているように見えるし、また最初は確かに改善された部分が目に見えるので、嬉しくなってもっとヘルプしようとしてしまう。
しかし、いくらアスペルガー側が努力しても、結局借り物のアドバイスを身につけるだけで、その奥にある自分自身を消すことはできません。どこかで借り物のアドバイスと自己意識との間に齟齬が発生し、ストレスになってきます。これが体調不良として表れてくるわけです。
さらに、そのときまで、カサンドラ側が一切間違いのないアドバイスができているかというと、たいてい少しぶれたアドバイスをしているはずです。これは、ぶれた発言を複数回行うことで言いたいこと(中心)を伝えるという、健常者からしたら普通のやり取りなのですが、アスペルガーにとっては、そのようなブレは許容できないものになります。
そのこと(カサンドラ側が言っていることが表面的に矛盾していること)をアスペルガー側が指摘することで、カサンドラ側もそうしたブレを意識させられます。そして、カサンドラ側は言葉遣いに非常に気を遣わされることになります。要するに最初から要点のみを伝えろという圧力がかかるわけです。
またこのあたりから、カサンドラ側は、アスペルガー側から一気に信頼を失ったように感じてきます。アスペルガー側からしたら、パートナーからの借り物のアドバイスを脱ぐタイミングであり、これまでも同じようにそうしてきたことなのでしょう。もちろん、自らの意思でそのように選択するのではなく、何日か寝込むことでそれを実現するわけですが…。
この寝込んでいる間、カサンドラ側は一生懸命アスペルガー側を介護をします。自分の発言が引き金になっていることもあり、引け目があるからです。
アスペルガー側が寝込んだ状態から回復したとき、カサンドラ側はヘトヘトになっています。にも関わらず、アスペルガー側からは感謝されない事態が起きます。アスペルガー側からしたら、カサンドラ側の支離滅裂なアドバイスが原因で寝込んでいたわけなので、ある意味被害者と思っているからでしょう。このあたりから、カサンドラ症候群の芽が出てくるのだと思います。
またこのとき、当初の「先生と生徒」「コーチとプレイヤー」という関係から、徐々に同居人的な感じ、もっと言えばあまり触れあいたくない関係に変わっていきます。カサンドラ側としても、自分の発言がきっかけと思っているから、一歩引いてしまい勝ちです。こうして関係が歪んでいくのです。
ただ、子どもがいない間は、そこまで協同してやらないといけないことはないので、問題は深刻化しません。問題は子どもができたときに一気に膨れ上がります。
育児で問題なのは、アスペルガー側の子どもへの無関心、過干渉、過保護というものです。子どもの分離不安を本当にこれでもかというくらい刺激する行動が出てきます。
もちろんアスペルガー側に悪気があるわけではないし、できる限りのことをやっています。しかし他人の気持ちを想像することが苦手という特性は、育児にはとてもキツいものです。結果、子どもはぐずるし、アスペルガー側も体力・気力をなくします。
また、この時期に他人からアドバイスをされると、さきほどと同じことが再現されます。要するにアスペルガー側は深く考えずに、そのまま対処療法的にアドバイスを鵜呑みにしては、うまくいかずに放り投げるということを繰り返すわけです。
この過程で、パートナーであるカサンドラ側はずっとアスペルガー側と子どもを支えなければいけなくなります。しかし、いくらカサンドラ側が支えても、アスペルガー側からは感謝がありません。アスペルガー側からしたら毎回限界を越えているので、そもそも感謝をする気力すらないのです。
この時期を歯を食いしばって乗り越えたとき、カサンドラは疲労困憊になっています。育児において夫婦の助け合いなどという幻想は霧消して、カサンドラ一人に責任がのしかかっていると感じます。自分が倒れると、もう後ろには誰もいないと思っているわけです。
実際はもっと外部リソースを使えればいいのですが、アスペルガーが自力でやろうとすることに引きづられて、カサンドラ側も何とか自力でやろうと知らず知らずのうちにやってしまっているのだと思います。このあたりは定型であればあるほど、相手に合わせてしまっているのでしょうね。
また外部リソースを入れることはアスペルガー側の人格否定になりうるという配慮もしてしまいます。要するに、お手伝いさんを入れたら、きっとアスペルガー側が「やっぱり、私はダメな人間なんだ」と思うだろうということです。
そんな感じで夫婦の会話などなく、毎日を何とか回すことに注力するカサンドラ側。アスペルガー側はアスペルガー側で、毎回借り物のアドバイスに振り回されて倒れることを繰り返します。
そうこうしている間に、なんとか生活が軌道にのって余裕が出てきます。それは子どもが成長してくれるからであり、それはまさに二人の努力のたわものだと言って良いものだと思います。
少しずつアスペルガー側にも余裕が出てきます。しかし、このときこそ、カサンドラ側はうつ病や被害妄想にとりつかれやすくなる時期だと思います。
逆説的ですが、カサンドラ側からしたら、こんなに自分は疲労困憊なのに、なぜ迷惑ばかりかけてくるあいつに余裕が生まれるのか、という恨みのようなものを感じるからです。
これまでカサンドラ側が相手を支えてきた理由は、アスペルガー側が倒れてしまっているからです。つまり、緊急対応なわけです。だからこそ、本来はアスペルガー側がやるべきことも相当肩代わりしている、そういう感覚を常に持っています。
これに対して、アスペルガー側は、現状は自然となったのであり、「カサンドラ側がやりたいからやっている」もしくは「カサンドラ側がやるのが当然」という感覚です。
もちろんアスペルガー側にも多少は引け目があるので、疲労困憊になっているカサンドラ側に対して「たまには気分転換に、子どもと一緒にご飯にでも行こう」などと提案したりもします。
これに対して、カサンドラ側は、ご飯を一緒に行ったとして、レストランなどでの子どもの世話やアスペルガー側が引き起こすであろうゴタゴタ、帰宅してからのルーティン家事、翌日やるべき仕事などを考えてしまいます。その結果、「よし。じゃあ行こうか」とは言えなくなるのです。
端的に言えばカサンドラ側に一切の余裕がなくなっているのです。アスペルガー側がカサンドラ側のやっていることを手伝って負担軽減していけば、カサンドラ側にも余裕が出てくるのでしょうが、残念ながらアスペルガー側もそういう余計なことはしたくないのです。
カサンドラ側としても、アスペルガー側に家事の負担をしてくれるように依頼して、またアスペルガー側がテンパって生活がグチャグチャになったら嫌だという感覚があります。カサンドラ側からしたら、もうこれ以上、加害者になりたくないのです。
こうして縮小均衡の夫婦生活で、行き着く先は離婚や別居ということになるのだろうと思います。(うちはまだ離婚していませんが…)
カサンドラ側にとっては、離婚、別居は究極の加害者行為にあたります。なぜならば、アスペルガー側が、絶対に被害者のポジションを取ってしまうからです。もちろん子どもは究極の被害者になります。それは動かしようのない事実です。カサンドラが離婚、別居に踏み切りにくいのは、そういう事情もあります。
しかし、カサンドラにも体と心の限界があるのです。ここが、最終的なデットラインなるわけですが、余裕のないまま離婚すると、離婚手続き事態が憂鬱なものなので、離婚後に子どもの世話まで行き着かなくなってしまうと思います。(当然、カサンドラ側が親権をもつことになる前提です)
結論
最初から誤解によってスタートした関係だと言って良いと思います。その誤解を解かないかぎり、カサンドラ側からすると常にブレーキがかかったような感じで毎日を送らざるをえません。
カサンドラ側は、いま一度自問するべきです。アスペルガー側がまったく自分の言うことを聞き入れなくて、成長もせず、借り物のアドバイスを取っ替え引っ替えしたとしても、自分は相手を受け入れられるかどうか。偏見を排除して、ありのままの相手を見て共同生活を継続できるかどうかを判断するべきです。
また離婚するしないに関わらず、カサンドラ側は自分自身に余裕を持たせるように出来ることがないか探すべきだと思います。アスペルガー側と関与していないところは既に工夫するところはないでしょうから、アスペルガーと関与するところを工夫していくしかありません。
しかし、既にカサンドラ側が肩代わりしている家事などは、アスペルガー側に戻すことは難しいでしょう。なぜならば、それができないからカサンドラ側が担当しているのであり、そこを戻すためには生活全体の整合性を再構築しないといけないからです。
そして、そんな余裕はカサンドラ側にはないでしょうし、うまく再構築できる気もしないでしょう。更に、どうせまた自分がやらないといけないんだろうという先読みも働きます。そんなしんどいことなら、ずっと自分がやっておいたほうがいいとなるわけです。
こう考えてくると、外部リソースを入れる以外には解決策はありません。カサンドラ側が負担している家事ルーティンを代行してくれるファミリーサポートなど第三者を家の中に引き込むのです。
ファミリサポートを利用する目的は、あくまでもカサンドラ側に余裕がなくなっているのを、少しでも回復させるためです。アスペルガー側の感情を考える必要はありません。アスペルガー側は最初ビックリするでしょうが、じきに慣れるはずです。なぜならば、カサンドラ側が担当している家事は、もはや自分に関係しないことだからです。
ファミリーサポートは、カサンドラ側が疲れ果てやすい晩から夜にかけていれると良いと思います。こうして余裕を持った上で、離婚手続きを進めるなら進める、進めないなら進めないという選択肢を取っていくべきだと思います。なお離婚時にもファミリーサポート活用は必須になると思います。その前段階で慣れておくという意味でも有用だと思うのです。
※ここまで書いていますが、まだウチはファミリー・サポート制度を利用していません…。考えているうちにそのような結論に至ったというわけです。
追記
あと最初のアスペルガー側の努力をいつまでも脳裏に焼き付けておくのは、カサンドラ側を病ませる原因になると思います。それはカサンドラ側の勘違いだったのです。実態は借り物のアドバイスを取っ替え引っ替えしている人なのだと理解するべき。カサンドラ側は勘違いしていたことを素直に認めないと前に進めないと思います。
アスペルガー側からすれば、最初に寝込んだ段階で、もはやカサンドラ側は有益なアドバイスをくれる信頼できる人ではなくなっています。相手の認識が変わっているのに、カサンドラ側がそれをひきづってはいけないのです。(もちろんだからといって敵対せよと言っているわけではありません)
そもそも、カサンドラ症候群になりやすい人は、「自分が必要とされている」感覚に酔ってしまいやすい人だと思います。自分がまさにそうだからですが(笑)
実際に頼られて悪い気になる人は少ないと思います。カサンドラはこの「必要とされている状況」を必要としているというか、それが生きがいの人、わかりやすくいえば世話焼きが多いのだと思うのです。
カサンドラが鬱化しやすいのは、そもそも提供したかったものとはまったく別のものを提供させられているときです。まるで相手のお母さん役のような立ち回りをさせられているときと言ってもいいかもしれません。確かにある程度「必要とされている」わけですが、それは常に不満たらたらでやらなければいけない不本意なサービス提供となっているわけです。
専業主婦の夫のモラハラ記事について思ったこと
専業主婦の夫のモラハラ記事について思ったことがあったのでメモしておきます。
これって会社でも普通にあることだと思いました。たとえば「社長・経営陣vs一般社員」とか。
- 社長・経営陣『お前ら、誰に給料もらっているかわかっていないだろ?』
- 一般社員『社長はむちゃくちゃだ。現場を知らなさすぎる』
相手の立場を想像できていないから、そういうセリフを言っているというのは一理ありますよね。
でもそれだけではないんじゃないかと思いました。端的にいえば、別のところでうまくいっていない現状があるからだと思います。
たとえば経営が上手くいっていれば、社長・経営陣は社員につらく当たらなくても済む。日々の仕事がうまく行っていれば、一般社員はそこまで追い詰められなくて済む。
専業主婦に当たり散らす夫も同じで、仕事がうまくいっていれば「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」なんて言わずに済む可能性が高くなると思います。
だから、夫が急にそんなことを言い出したら、その言葉を真に受けるよりも「仕事がうまくいっていないのかな?」と想像するのもいいんじゃないかと。
あとこういう議論でよく出てくる「結婚したときは~だったのに」という理屈は、少し的外れだと思います。なぜならば、そんな過去のことを持ちだされても、現状はもう変わってしまっているからです。
過去を振り返って、過去と同じように戻そうとしても、それまでに積み重ねてきた経験を無かったことにするわけにはいきません。大切なことは「現状を受け止めて、将来のためにいま何をするか」ということだと思います。
【アスペルガー娘の育児記録】ちっぽけだけど、とても感動したこと
4月は保育園登園を嫌がっていたアスペ娘(3歳9ヶ月)ですが、この6月からは保育園でお昼ご飯も食べられるようになりました。かなりの進歩!しかも家ではほとんど食べないお野菜も一口くらいは食べているとのこと。
願わくば無理のない範囲で、少しずつ食の豊かさを楽しめるようになったらいいなと。保育園の先生方のご協力・ご配慮も大変ありがたいことです。
あと感動したこと。まさに今朝のことですが、保育園登園前のウォーミングアップとして、じゃれつき遊びをしていたときに、アンパンマンたいそう・勇気100%の歌に合わせて、娘が本当に気持ち良さそうに踊ったこと。
娘が音楽と一体化して踊っているだけでなく、見ている自分も場に溶け込んで手を叩いていて、本当に夢のような時間を過ごしました。
私自身、これまで何気ない風景のヒトコマを眺めていて、場と一体化する経験はありましたが、対人との関係で場に溶け込むのは、あんまり記憶にありません。とても気持ちのいい時間でした。
多分、娘も同じように感じたのではないかと思います。そして、こういうプラスの経験から「もっと上手に踊りたい」という自発性が生まれていくんだろうと思いました。
娘は鼓笛サークルに参加しているのですが、これまであまり興味を示さなかった踊りの練習にも、取り組む姿勢が少し変わっていくのかなと。
ただ、ここで注意しないといけないのは、親である自分が「見守り」に徹すること。コーチになってしまったらいけないと思っています。ただただ「ありがたいなぁ」と思いながら楽しませてもらおうと思います。
最近二年ぶりに読み返していますが、本当に何回読んでも、得るところが大きい育児本です。子どもが発達障害だと、ついつい親が手を出してしまいがち。しかし、子どもはちょっかいを出されれば出されるほど、自己有能感が損なわれてしまいます。
大切なことは娘の可能性を信じること。いま年相応のことができなくても親が焦らないこと。この本を読みかえして、これからも手を出し過ぎないように気をつけていこうと思います。
アスペルガー娘の保育園登園 うまくいった実践記録
先週の金曜日から今週の火曜日まで風邪でダウンしていた娘(3歳8ヶ月)。40度を超える熱が出たり、熱性けいれん(二回目)を起こしたりで深夜2時頃に病院にお世話にもなりました。
今日(木曜日)からようやく保育園に再登園というところ。懸念していたとおり登園を嫌がったけれど、それなりにうまく対応できたので記録しておこうと思います。
父「よしっ、ご飯も食べたから、お布団の部屋で追いかけごっこしようか?」
娘「しょくぱんまんのかくれんぼするー」
ここしばらくの自宅療養で保育園登園することが頭にない娘。登園にむけていつもの流れに落とし込もうとしましたが、残念ながら乗ってくれず。しかし、基本は娘の意向に従って、別のアプローチで満足メーターを上げることに。(満足メーターについてはこちらを参照)
娘のやりたいことをすぐに叶えてあげればあげるほど、その分だけはやくこだわりが取れる。そういうわけで、しょくぱんまんのかくれんぼ遊びも終えたところでリマインド。
父「そういえば、今日は保育園の日だね」
娘「保育園行かない!」
父「そうかー、いまは行きたくないんだね」
娘「今日は保育園行かない日!」
父「そうかそうか、行きたくないんだね」
案の定というか娘が拒否反応を示したので、まずは娘の気持ちの受け入れを行う。いろいろ考えてしまっているのだと思うけれど、娘が固まってしまっていたので、様子を見計らって、その場で追いかけごっこを開始。
父「タラッタラッタラッタ、うさぎのダンス~♪」
娘「キャー!」
保育園に行きたくない気持ちが凝り固まらないように、楽しいことで気持ちを埋めてしまう。その場にちょうどマットがあったので、追いかけごっこから手を取り合ってぴょんぴょん飛び跳ねる遊びへ移行。
疲れてきたら(というか、すぐに自分が疲れる(笑))抱きかかえてゴロゴロ転がる。なるべく満足メーターをあげるように頑張る。
この時点で保育園に行くならば出発予定時間の5分前。そろそろ、流れに乗らないか少し強めに探ってみる頃合い。
父「そういえば、トイレがまだだったね」
娘「トイレ行かない!」
父「いいよー、トイレ行きたくなったら教えてね。パパはトイレに行きたくなってきたから、トイレに行くね」
「トイレに行って、家から出発」という一連の自然な流れに持ち込みたいけれど、たいてい声掛け段階では拒否される。ここでも娘の気持ちを受け入れて、それとは別に自分が行きたくなったからという理由でトイレに行く。トイレという場に近づくことが重要。
父「あー、チッチしてすっきりー。あっ、そういえば、ジージはいるのかな?ジージーって呼んでみて」
娘「ジージー!」
…(しーん)
娘が家にいてやることといえば、義父と遊ぶこと。ちょうど今日は朝から外出しており、義父がいないことを娘に確認させる。これで家にいる楽しみがだいぶ薄れるはず。
父「ジージ、いないみたいだね。今日は黒(平日)の日だから、パパもそろそろお仕事に行かないとなぁ~」
娘「パパー、だっこー」
父「はいはい、おいで」
だっこを良い機会に、何食わぬ顔で娘をトイレに連れて行く。このとき娘の意志を確認しないことが重要。聞いても、あまり深く考えずに先ほどと同じ反応(拒否る)をするのはわかっているので、聞いたところで仕方がない。
娘「チッチ、しー」
父「はい、上手にできたねぇ」
娘「今日はお迎え何時かな、3時?」
父「もっと早くお迎え行くはずだよ。11時だね」
娘「早いほうがいい」
父「いいよー、ママに早くお迎えに来てねって伝えておくね」
幸いにして、トイレの途中で保育園に行く前提での話になったので、そのまま話を進める*1。パンツとズボンを履きやすいように置いておいて、娘がパンツとズボンを履いて、その流れで玄関から出発。
自転車で向かう間も、久しぶりの保育園なので少し緊張気味。登園中に保育園での生活を考えさせても仕方ないので、天気や列車の通過などを指さしたり、歌を歌ったりして気を紛らわせる。
保育園の見送り時には、残念ながら娘の一番のお気に入りの先生が出迎えてきておらず、別の先生だったので、少し娘がぐずった。でも、二番目にお気に入りの先生が来てくれたので、なんとか泣かずに見送りが完了できた。
※今日の反省点
義父がいないことがわかっていたので、もう少し娘に提案の形で伝えても良かったかもしれない。
具体的には「お家で遊んでもいいし、保育園に行ってもいいよ。好きなようにしていいよ」と提案して、娘の意思で「保育園に行くー」と言わせられたら、もっと良かったと思う。まあ、拒否られたときには諸刃の剣なので、なかなかそこまで言う勇気がないけれど…。
あと、今日は娘も前向きになってくれたけれど、どうしても嫌がっているときは無理を通さないようにしないといけない。なかなか、それを見極めるのは難しい…。
*1:正確には保育園に行きたくなったわけではないと思う
アスペルガー娘の保育園登園にまつわるゴタゴタについて
Twitterで「学校に来てしまえば楽しんでいますよ」というセリフに対して、「"~しまえば"と言うけれど辛いことにはかわりない。スイッチを切り替えているだけ」という指摘があった。
「最初がダメだけど、学校へ来てしまえば楽しく遊んで過ごしています。」 この〝来てしまえば〟にだまされてはいけない。 それを長男で学んだ。 長男からも言われた。それは違うんだ。「仕方ないから自分でスイッチを切り替えるんだ。だけど心の中は同じ。 辛いまま。」
これは保育園登園を嫌がっていた(今も少し嫌がっている気配はある)アスペルガー娘(3歳8ヶ月)とかぶるところがあって、他人事とは思えないんですよね。自分のなかで整頓するために、うちの娘に置き換えて少し考えておこうと思います*1。
保育園で楽しんでいるのであれば良しとする
まず、保育園で過ごしている時間が楽しいのであれば、それは良いことだと思う。逆に辛い時間を過ごしているのであれば、早急に対応する必要がある。その場合は、保育園にお願いして居場所を確保する必要がある。
保育園で特別扱いしてもらうことについて、親のほうが腰を引けてはいけない。要望を伝える勇気をもつことが大切。実際に保育園の担任の先生と話してわかったことは、先生のほうとしても、娘に関する(居心地が良いと感じる)情報はありがたいとのこと。これからも機会を見つけて情報交換していこうと思う。
じゃれつき遊びで満足メーターを満タンにする
次に「保育園に行くのが辛い」と感じる理由が何なのか。本人にとって家のほうがいいからかもしれないし、親と離れるのが辛いということもあるかもしれない。
もし親と離れるのが辛いことをもって、行きたくないと言っているのであれば、それはこちら(親)のほうで対応できることがある。具体的には、満足するまで遊んであげること。じゃれつき遊びなどで、満足メーターを満タンにすること。
そうすれば子どもは安心して親元を離れることができるようになる。これを行わなければ、親から離れたくないとなる。
うちの娘は感覚過敏もあり、触れ合いが不足してしまい勝ち。アスペルガーの特性上、雰囲気・場の空気という間接的なフォローも効きにくい。だからこそ、直接的なじゃれつき遊びで楽しさが過敏を上回るようにして、触れ合う必要があると思っている。
脳をきたえる「じゃれつき遊び」―はじめて出会う育児シリーズ 3~6歳 キレない子ども 集中力のある子どもに育つ
- 作者: 正木健雄,井上高光,野尻ヒデ
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家にいるときは登園について考えさせない
家にいるときは保育園登園について考えさせないのも一つの手。登園にまつわる辛さは、登園する時だけで充分。それ以外の本来考えなくてよい時間まで辛い時間にする必要はない。
親が登園に気がかりになっていると、子どもも意識せざるを得ない。時間が来たら淡々と手続きをこなすように誘導することで、子どもも辛さを味わう時間は短くてすむようになると思う。普通の時計を買うなどして、あらかじめ時間を指定して宣言しておく。最初は抵抗されるけれど、そういうものだとわかれば、子どもも動きやすくなる。
登園自体が心地よいものに感じられるようにする
登園する時にお菓子をあげるのも一つの手。お菓子を食べながら辛い気持ちをキープするのは難しい。肥満児になってしまう可能性には配慮する必要があるので、他のところでバランスを取る必要があるが、少しのお菓子だけで前向きに登園できるのであれば安いもの。
この延長線上で、登園自体をもっと楽しくすること。自転車・自動車・徒歩いずれにせよ、登園の過程を楽しむことができ、親との別れが一瞬で済ませられれば、子どもにとって家から出やすくなる。これについてはまだ上手くできていないので、登園途中でできることを考えたいと思う。
いまの保育園に行くことは良いことだと確信できているか
これらのことを行う根底に、親のなかで「保育園に行くことが子どもにとってプラスである」ことが確信できていないと厳しい。
うちの娘の場合、場の空気が読めないことに起因する友達づくりの困難さという課題はあるだろう。それでも、集団のなかにいることに慣れることにはプラスがあると思う。
他の園児が遊んでいるのを横でみているだけでもいい。家にいて動画やテレビをみて過ごす生活よりもよほどよい。
娘のどこにどのような特性があるかは経験してみなければ出てこないと思う。なるべく無理のない範囲で、たくさんのことを経験させてあげて可能性を広げてあげたいと思う。
*1:あくまで我が家に関する考察です
アスペルガーって、視覚や聴覚といった入力の問題じゃないかと、ふと思った。
アスペルガーって、脳機能の偏りという出力側の問題ではなくて、視覚や聴覚といった入力の問題じゃないかと、ふと思った。
それも、静的なものを見たり、一つの音に集中して聞くのは出来るけれど、動的なものを見たり、複数の音から聞き分けるのが苦手というもの。それで、入力に支障があるから、出力(どう解釈して、どう行動するか)が普通の人とズレてしまう。
脳自体には、普通の人と同じ機能が備わっているかもしれないけれど、入力系統が制限されてしまっていたら、特定の脳機能しか使われないことになって、結局アスペルガーの人特有の「脳機能の偏り」が顕在化してしまうのではないか。
触覚に関しては、「触覚過敏」という名前が付いているけれど、視覚や聴覚については発達障害で述べられることが少ないなぁと思っている。まあ、定型側は発達障害者も同じものを見たり、聞いたりしていると思っているから顕在化してないのかな?逆も同様だけど。
アスペルガーの人からすると、定型が見ているように視覚に入ってきた風景が連続して見えないのかもしれないし(見ているものがコマ送りのようになっているのかも)、焦点の絞り機能に問題があるのかもしれない(全体→部分→全体→…の切替がうまくいかないなど)。
同様に、聞こえる音が無数に織りなすように押し寄せているのかもしれないし(全ての音に意味をつけようとしたり、全ての音を無視したり)、特定の周波数や高低に問題があるのかもしれない(低い音が聞き取りにくく、相手の話し言葉が飛び飛びに聞こえてしまうなど)。
なんにせよ、これまでは「出力」側をどうにかしようとすることが多かったように思うけれど、「入力」側についてももっと研究がなされると良いなと思う。こういうものこそビッグデータを活用してもらいたいところだなぁ。
なんで思いついたかというと、乳幼児健診で動的な視力・複数音の聞き分けについては検査されないからなんだよねー。だから、気づかれずに、みんなもそういうものだと思って、ずーっと過ごしてしまうんじゃなかろうか。当事者の方のご意見も聞いてみたいところですね。
アスペルガー娘の子育て指針『自己肯定力を身につけてもらう』
子育てをしていて思うのは、自己肯定力はそれまでの経験に由来しているんだろうな…ということです。いまの娘(3歳半)を見ていると、アスペルガーであることが自己肯定・自己否定に直接影響していないのが、わかります。
彼女のもつエネルギーは他の子とたいして違いはありません。活発に走り回るし、歌もよく歌う。いまのところ定型発達との違いは、感情が絡むコミュニケーション以外では目立ちません。
しかし、どうしてもアスペルガーの特性や、娘のこれまでの行動パターンを考えると、他者との認識のズレから「うまくいかない」経験をしがちになるでしょう。
この「うまくいかない」→「自己否定」の頻度が、自己肯定の経験を上回ってしまうと、自己否定的なモノの見方が定着してしまうと思います。
そうなるとエネルギーが内部に向かうようになる。たとえば「これはやってもいいのかな?」「どう話すべきなんだろうか?」などなど。そうしてアウトプット量が乏しくなり、余計に「自分はダメな人間」と見なすようになってしまうことが予見できます。
これを避けるために、まずは一番身近な親が「常識という枠」を緩めることが最低限必要なことだと思っています。枠内に子どもが入ってくるまで緩めるわけです。
- 時計の読み方を教えようとして嫌がられても気にしないで受け入れる。短期的にどうこうしようとせず、気長に取り組む。
- 色粘土をすべて混ぜてしまっても、おおらかに笑って済ませる。新しい粘土を買う。(混ぜてしまった粘土ではもう遊ばなくなるけれど、それはお金で解決できること。)
※ひとつずつの事象は普通の定型発達の子にもよくあることですが、うちの娘の場合は連続しておきるのが、対応する親としてしんどいところ。だからこそ、まわりには複数人の家族がいたほうがいいと思っています。
加えて、まわりの関わる大人にも、ある程度ご配慮をいただくようにお願いすること。アスペルガーであることを何も言わないと、どうしても「しつけがなっていない」と思われがち。
加えて、親切な方は親にかわってしつけを教えようとしてくれます。が、それはありがた迷惑にしかなりません。いわば、弱視の人間に、健常者と同じように見る練習をさせるのと同じだからです。
そもそもの脳機能が未発達では、できないことはできないのです。挫折経験を増やし、自己否定に傾かせるだけなのです。他人からの善意を空回りさせないためにも、あらかじめご理解いただけるように、親は努力する必要があると思っています。
娘はこれからお友だちとのコミュニケーションでしんどい思いをするでしょう。でも、本当に字面通りしんどいのは娘です。親は替わりになることはできません。だからこそ、娘が自己肯定を維持できるように出来ることをやっていこうと思っています。
追記
「場の空気」「相手の感情」がわかりにくいのが、アスペルガーの特性です。これは脳機能の偏りと表現されます。で、脳は大人になるにつれて発達するので、すこしずつ改善されていくわけです(勝手な想像ですが)。
しかし、昨日今日といった短期ではベースラインはどうにもなりません。だからこそ、ベースラインが十分に上がるまでの間(成人する頃まで)は、親が環境を整えて、自己肯定経験を増やせるようにしていくことが大切なのだと思います。
理想は id:nanaio さんのところのお子さんのように、何か一芸に秀でる育て方をすることです。こういうのってアスペルガーの子どもを持つ家庭の「希望の星」なんですよね。